2013年01月
社長を引退したと書きたいところだが、会社に個人保証しているから、完全には引退できない。
しかし、周りには生涯現役だね、などといわれると、なぜか腹が立つので、昨年の暮れ、社長職を後進に譲り、一線から引退した(ことにして会長職についた)。
昨年、猛暑の中、外注先を確保する目的で弊社の専務とベトナムのハノイに行ってきた。
夜の11時時ころのハノイ到着である。ハノイは、フランス統治時代の面影が残っており、落ち着いた首都であると隣の席の人が話していた。
飛行機の上から見える町並は、暗闇の中から、赤みを帯びた街路灯が、並木を浮き上がらせて区画を形作っていて、今までに見たことがない夜景となって広がっていた。他の国の都市の近代的なビルが無秩序に生えている街と比べると、はるかに旅情をくすぐる。
次の日、通訳のボランティアとともに、予約していた会社を訪問した。
数ヶ月前に、公的な機関の海外ビジネスツアーに応募して、一度見学した会社であるので、すぐ商談に入り見積もりを依頼した。その後工場を見学してから、もうひとつの会社を訪問して、目的を達した。
熱帯の真夏の午後、炎天下を歩いたので、通りすがりの店に入って、ジュ-スを頼んだ。
出てきたジュ-スの氷が、自家製と気がついた現地生活の長い通訳のボランティアが、カウンターの横から、氷の出何処を確認して、いぶかしげな様子だったのが気になった。
訪問の行程は、この日の夜行便で成田に向かい、翌朝5時に到着、すぐに駐車場に行って、喜多方まで6時間運転する予定である。
つまり、喜多方を出発して、二泊して、自宅に戻るという48時間の強行軍である。
心のどこかに、自分のタフさをひけらかしたい思いがあったのかも知れない。
夕食を済ませ、ハノイの飛行場行きのタクシーを拾った。
乗って5分もたたないうちに腹が痛くなって、便意を催した。外は熱帯特有のスコールである。途中バイクに乗った若者たちが、雨宿り先に向かって先を急いでいる。ベトナムの庶民の交通機関は、100ccクラスの日本の現地生産のバイクである。こんな時、よりによってと思いつつ、ずぶ濡れになって、キジ撃ちもあるまいと思いながらも、そうせざるお得なくなるタイミングを覚悟して、次々に襲ってくる便意を必死に我慢した。
長く感ずる苦闘の後、良くぞ我慢したもので、飛行場のトイレに間に合った。
搭乗が始まるまで2時間、トイレの近くに構えて、便意の到来に備えた。
そういえば、会社の若者が同じベトナムに出張した折、うっかり生水を飲んで、偉い苦労したという話をしていたのを思い出した。
水あたりと言うのかどうか知らないが、きれいな水を塩素消毒をして飲んでいる日本人は一度は洗礼を受ける熱帯病リスクであるという。
空港で4回、機内で2回、成田で1回都合7,8回のトイレ詣で、やっと落ち着いたが、機内では、エンジン音がうるさく、トイレ疲れで熟睡もできず、成田から喜多方への移動は疲労困憊で、連れに運転をしてもらったが、途中から連れも眠そうだったので運転を代わった。
高速道路で2時間くらい運転して磐越道に入ったころ、眠気が襲ってきた。
次のサービスエリアで、一眠りしようと必死に目を開けて、眠ってはならないと思いつつ運転していたと思っていたが、突然、鈍い衝突音に我に帰って反射的にハンドルを左に切った。
車はどういうわけか、追い越し車線に戻った。
サイドミラーが、分離帯からわずかに追い越し車線側にはみ出している反射筒に当たったのである。 追い越し車線に入った記憶がないのでこの間、1,2秒間居眠り運転をしたことになる。
時速100kmを超えて運転しているから、走行車線に復帰できなければ、大事故であったことには間違いない。 思い出せば、今でもゾーッとする。
会社で“私が運転する車にはカクカクシカジカだから乗らないほうがいい”と自ら触れ回ったときの惨めさはなかった。
以後、私のほうも、2人で出かけるときは、自分では運転しないようにし、早々と助手席に座ることにした。
昨年の夏は暑かった。しかも、中々涼しくならなかった。
女房の管理している、家庭菜園は、水不足で水気のない野菜がそれなりに取れた。
生野菜は体にいいと、朝夕水気がなくバリバリした生野菜が食卓に並ぶのだが、食傷気味になりながら、否、とは逆らえず食い続けた。
そんなある日、就寝間際に、胃がもたれ気味だったので、いつも飲む薬に胃薬を合わせて飲んで寝た。
翌朝、今までにないような痛みを胃に感じたので、救急外来で見てもらって、薬を処方してもらい、薬局に行った。薬局についたとたん強烈な吐き気がしてきて、そこのトイレに飛び込み嘔吐した。
家に帰っても、3、4回嘔吐したが最後は、緑褐色の胃液が出てきた。
以後1ヶ月間、おかゆを1日2回、晩酌なしの生活が続いた。その間、友人の医院で2回ほど胃カメラで串刺しにされた。2回目は、奥方医者の立会の元、たいしたことがないと、先生が安堵の言葉を吐いた。私はそれほど深刻にはならなかったが、友人の医者は、食道がんを疑ったらしい。自分の患者、しかも高校時代の同級生であるで、誤診したら後が怖いからといった。
真剣に夫婦で診察してくれる友人を医者に持つた幸せをかみしめた。
その間、78kgあった体重が72kgなったときは誇らしく思った。20年間も減らなかった体重が減ったのである。体重を減らせと、私の腹を指で押す友人に、やせるのは簡単だ、食えなくなる病気になればいいんだなどとうそ吹くことができる。
そんなこんなで、そろそろ一線を退こうという気持ちになった。
プロスポーツの選手が引退時に述賜る、身も心もボロボロで、闘争心がなくなったという心境になったのだ。幸い後継者にしたいと思っていた従業員が、後をついでもいいといってくれた。
メカのとっつぁん
- 今日:
- 昨日:
- 累計: