ブラジル生まれの36歳の甥が、日本の叔父である私に会いに来た。

彼の研究所で使用する機器を日本の大手金属会社から買付け、
検収に来たついでに休暇を取り、父親のルーツである、会津にいる
我々のところまで足を伸ばしたそうだ。

彼の来日は父(私の弟)からの連絡では初めてであるとのことだ。
ブラジルの国営公社の研究所員で、物資に関する学位を持っている・・・・

弟は、高校卒業と同時に、単身で農業移民としてブラジルに渡った。
私が、浪人して大学の入試の結果を待つ間に、横浜出港のサクラ丸に
乗った弟を見送った。

最初は、日系の農協の紹介で、会員である農場主が身元引受人となって
その農場で、5年近く勤めて、現地で農業をする技術を学んだ。
同僚の日系人はノイロ-ゼとなって、どこかにいってしまったそうだ。

弟が、独立したいとの希望で、農場主に暇乞いをして、日本にいる父親
から、資金を提供してもらい日系の友人と共同で、事業を起こした。
その友人のミスで、事業に失敗、資金は無くなったが、かろうじて店の
場所を確保して、花屋を開いた。

日本の父親は、その資金も提供した。
両親の生活費と末弟の学資になる金である。
当時、末弟はブラジルの兄は、自分の学資を使ってしまったと恨んだ。

花屋は繁盛し、お得意さんの紹介でお嫁さんをもらった。
しばらくして甥が誕生した。今から35年前である。
生活も良くなり、長女、次女と生まれ、家族が5人となりそして念願の
家も持った。

努力家の弟は、花売りに飽き足らず念願の花卉の生産を始めようと、
100km以上も離れた山奥に農場を買った。

農業の専門知識を持つ父親の日本からのアドバイスと、天性のアイデア
とで、花やら、庭木(いわゆる生垣になる観賞用の低木)などを、市場に
出し、事業は少しずつ上向き始めた。

甥は、休日になると、父親と一緒に農場に寝泊りして作業を手伝った。
サンパウロの市場までは、大型トラックに花卉類を満載して、往復する
日々が、続いた。

そこそこ繁盛していた花屋は、友人に預けたまま、農場経営に全力を
投入しているうちに、その名義を、その友人にとられてしまった。

弟家族(2)へ続く