「和」を以て先送りとなす!

 メカトロで世界に貢献。 長崎県諫早出身の創業社長が、チョットおかしな世を嘆き、自らの持論を展開.

ブラジルサンパウロ

弟家族(2)5

諦めの早い弟は、農場経営に全力を投入した。

簡易なビニールハウスを自力で何棟も建て、庭木を増やし、それをサンパウロ
の庭園業者に売った。
ある種の庭木は、自分がサンパウロに、流行らせたといって自慢していた。

従業員も数十人に増え、社会保険も積みたてていた。
シンジケートといって、現地の社会保険組合のようなものに、従業員の給料を
天引きして、積み立てていた。

給料日、弟が遠方に行っていたので、連れ合いが給料を引き出しに、銀行にいった。

銀行では、大金を、女性が引き出すので、出し渋っていた様子であったそうだが、
金を受け取って、銀行を 出てしばらくすると5,6人の男にとり囲まれた。 
身の危険を感じたので、もっていた現金を投げ捨てて、逃げたという。 

給料が払えなくなったので退職者が出たが、そのとき、社会保険が積み立てられ
ていなのが発覚した。
信頼していた経理担当者が失踪したので、積立ての真偽が不明で、弟は訴えら
れて裁判になって負けた。

この間、資金が不足して、我々に資金援助を求めてきた。
最大の理解者の父親は既に他界していた。
兄弟たちは自分たちの生活に忙しく資金援助ができなかった。

弟の長男は、その時、ブラジル一の工業大学で、ドクターコースの3年目だった。

彼は、一時休学し景気の良い日本に出稼ぎにきることを決意したが、両親諭され、
勉学を続けることにした。  その代わり、母親が日本に出稼ぎにきた。

母親は、日系何世かのブラジル人で、年齢は60歳を超ていたが初めて来日で、
1年間長野県の温泉宿で、仲居として働いた。

ブラジルに帰るとき、会津に来て、義父の墓前にお参りをしていった。
それから、5年経過した今年、弟から長男が勤めの関係で日本に行くから、
よろしくという電話が入った。  そして、会津にきた。

ドクターコースを終え、ポストドクターも経験したが、今ではブラシルの国営公社
で、研究者として勤めている。
その息子の話し振りから、自分をここまで育ててくれた両親を慈しむように尊敬
している様子が窺えた。

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弟家族(1)5

ブラジル生まれの36歳の甥が、日本の叔父である私に会いに来た。

彼の研究所で使用する機器を日本の大手金属会社から買付け、
検収に来たついでに休暇を取り、父親のルーツである、会津にいる
我々のところまで足を伸ばしたそうだ。

彼の来日は父(私の弟)からの連絡では初めてであるとのことだ。
ブラジルの国営公社の研究所員で、物資に関する学位を持っている・・・・

弟は、高校卒業と同時に、単身で農業移民としてブラジルに渡った。
私が、浪人して大学の入試の結果を待つ間に、横浜出港のサクラ丸に
乗った弟を見送った。

最初は、日系の農協の紹介で、会員である農場主が身元引受人となって
その農場で、5年近く勤めて、現地で農業をする技術を学んだ。
同僚の日系人はノイロ-ゼとなって、どこかにいってしまったそうだ。

弟が、独立したいとの希望で、農場主に暇乞いをして、日本にいる父親
から、資金を提供してもらい日系の友人と共同で、事業を起こした。
その友人のミスで、事業に失敗、資金は無くなったが、かろうじて店の
場所を確保して、花屋を開いた。

日本の父親は、その資金も提供した。
両親の生活費と末弟の学資になる金である。
当時、末弟はブラジルの兄は、自分の学資を使ってしまったと恨んだ。

花屋は繁盛し、お得意さんの紹介でお嫁さんをもらった。
しばらくして甥が誕生した。今から35年前である。
生活も良くなり、長女、次女と生まれ、家族が5人となりそして念願の
家も持った。

努力家の弟は、花売りに飽き足らず念願の花卉の生産を始めようと、
100km以上も離れた山奥に農場を買った。

農業の専門知識を持つ父親の日本からのアドバイスと、天性のアイデア
とで、花やら、庭木(いわゆる生垣になる観賞用の低木)などを、市場に
出し、事業は少しずつ上向き始めた。

甥は、休日になると、父親と一緒に農場に寝泊りして作業を手伝った。
サンパウロの市場までは、大型トラックに花卉類を満載して、往復する
日々が、続いた。

そこそこ繁盛していた花屋は、友人に預けたまま、農場経営に全力を
投入しているうちに、その名義を、その友人にとられてしまった。

弟家族(2)へ続く
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