出生地は長崎県の諫早市である。
そこで4歳まで過ごした。

兄姉は長崎の原爆を見たといっている。
私が2歳のときである。

私は、誰かに抱かれて、赤黒い夕焼け雲のようなものを見た記憶がある。それが原爆であったかどう定かではない。

終戦から2年後、父は学制改革のさなか、自分の故郷の会津に、新制高校の教員として赴任することになった。

 一家8人家族が九州を引き上げる途中、大阪駅で野宿するぼろ着姿の浮浪者を目にしたのも思い出される。

4歳から18歳まで会津で育ったが、佐賀県生まれの母と長崎育ちの5人兄弟の影響が強く情緒的には西国気質のよそ者として会津で育ったことになる。

18歳から30歳まで、山形県、愛知県、宮城県で、自分探しをしたが、再び、会 津に戻ってきて、頭をまっさらにして飯の種を獲得すべく術を学んだ。

 2年後、地元の女性と結婚したのを境に青春時代の許された彷徨は終り、この地で生きていく覚悟ができた。

自己紹介(2)へ続く